神という名の光に照らされて
僕らみたいなおっさんフットサルにも気軽に来てくる宇留野さんです。この記事を読んで自分勝手な自分を恥じました。少し長いですが、是非読んでも欲しいです。
「いまは、我慢をして何かをやっていれば、何か報われることがあると思える時代ではない。そんな時代だからこそ、こうした内容のものが必要とされるんじゃないかな」
この言葉は、今から6年前の2010年に、現ファジアーノ岡山の長澤徹監督が、1時間以上の取材を終えた後、僕に話をしたことだ。僕も長澤さんが述べたことが、現実になって欲しいと考えてここまで文章を書いてきた。僕は、選手が一生懸命に語ってくれた言葉を文章化することで、それを読んだどこかの誰かが、少しでも「頑張ろう」と思えるようなものを書きたいと望んできた。しかし、この原稿を世の中に発表した2011年当時は、まったく反響がなかった。
僕は、書かれた言葉に関しては、こんな風に考えている。僕が書いた言葉は、誰かによって拾われる。書き手の言葉は、自分の手元を離れて誰かに読まれた瞬間にその誰かのものになる。その誰かが拾った言葉は、また別の誰かへと受け渡されていく。書かれた言葉は、そうして誰かによって消費されて時間とともにあちらこちらに巡っていくものだ。そうやって僕は、書かれた言葉の存在について考えている。
2015年になって、僕が書いた言葉が僕自身に戻ってきた。現在の僕は、今まで取材してきた選手や関係者の言葉によって支えられている、と言える状態だ。どのような状態なのかは詳しく書かないけれども、僕が、こうして過去に書いた作品を公開するのは、僕に語ってくれた選手や関係者の言葉や気持ちを埋もれさせたくないからである。
彼らの言葉によって僕が勇気づけられているように、これから記される物語がどこかの誰かによって拾われて、誰かの生きる支えになれることを、僕は心から願っている。
この物語は、2015年現在、タイ3部リーグUBON UMT UNITEDでプレーする宇留野純と、J2リーグのファジアーノ岡山で監督を務める長澤徹との師弟愛を描いている。いや、そんな表現では伝えきれない物語が凝縮されている。人が生きていくためには何が必要で、いったい何によって人は支えられているのかが、この物語を読めばはっきりとわかる。
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